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どんな猫を見ても猫だと分かる不思議をイデア論が説明するよ

古代のギリシアには様々な哲学者がいました。
ソクラテスとか、プラトンアリストテレスなどなど、有名な偉人がごろごろいます。
まあ、それは哲学に限った話ではありませんけど。

 

「どんなことをしてたのかは知らないけど、確かに名前は聞いたことあるな~」


あなたもこんな風に思ったんじゃないですか?

 

そんな有名な古代ギリシアの哲学者の一人にプラトン先生がいらっしゃいます。
プラトンは『国家』や『メノン』、『饗宴』、『ソクラテスの弁明』などなど、実に様々な本を残していて、その思想の後世への影響力もめちゃくちゃ凄いです。

そんなスゲー先生の思想の一つ、「イデア論」を今回は取り上げてみました!

 

以下、もくじ~。


1.世の中に理想的で完璧なものなんてない

 

「猫ってなんですか?」

 

こう質問された時、「猫と言えばコイツだ!」というようにビシッと説明することができれば、猫が何か分からない人でもすぐに理解することができますよね。

 

つまり、誰もが認める理想的な猫を示すことができれば、「猫ってのは厳密に言うとこんなものだよ」と示すことができれば、猫が分からない人にも理解してもらえるでしょう。
なるほど、それが猫なのか、と。

 

では皆さん、「猫と言えばコイツだ!」と言えるものは何でしょうか?
こういうものが猫ってやつさって言う時の、「こういうもの」とは何でしょう?

 

ある人は、「猫はニャーと鳴く動物だよ」と言います。
でも、わたしたちは猫がニャーと鳴いていなくても、その姿を見て「あ、猫だ」と判断することができますよね。
じゃあ別に、猫はニャーと鳴かなければいけないというわけではなさそうです。
ニャーと鳴いていなくても猫って分かりますし。

 

別の人は、「どんな特徴があるにせよ、猫は動物の一種だよ」と言います。
これは説得力が強そうです。
実際、猫は動物ですしね。

 

でも、写真に映っている猫とかイラストで描かれた猫とかを見ても、わたしたちは「あ、猫だ」と普通に判断します。
もし猫が動物でなければいけないのなら、動物でない写真やイラストの猫(つまり、二次元の猫)を見ても、それを猫だとは判断できないはずです。

 

もちろん、写真や絵の猫と動物の猫とは全く違います。
片方は二次元の存在で全く動かず、もう片方は三次元の存在で動いて生きています。
けれど、両方とも同じ「」ですよね?
そうするとどうも、猫というのは動物でなくてもいい、ということになりそうです。

 

こんな感じでみていくと、「猫と言えばコイツだ!」と呼べるようなもの、「猫って言うのは厳密に言うとこんなものさ」と呼べるものは世の中には存在しないと言えます。
理想的な猫なんて現実にはいないって事ですね。

これは猫に限らない話で、この世に理想的で完璧なものなんて存在しないのです。

 


2.まさに理想的! お手本となるものがイデア

 

まさに猫そのもの」と呼べるような、理想的な猫なんて現実には存在しません。
だからわたしたちには彼らを見ることはできないのですが、でも、頭の中に思い描くことはできます。

その特徴を言葉で事細かく説明するのは難しいかもしれませんが、それでも「猫そのもの」と呼べるような理想的な猫を思い描くことは誰でもできるはずです。

 

この「猫そのもの」というのを、プラトン先生は「猫のイデア」と呼びました。
要するに、イデアというのは「○○そのもの」、「理想的な○○」というもののことです。

そしてイデアは、物のお手本にもなります。

 

猫の絵を描く人は「猫のイデア」をお手本にして描くので、耳を兎のように長くしたりしませんし、象のように鼻を長くしたりもしません。
そうしてしまうと、お手本である「猫のイデア」から離れ、猫ではなくなってしまうことを描き手は知っているからです。

 

また、尾ひれなどがあり、水の中を泳いでいる動物が絵に描かれていて、そのタイトルが「猫」だったのを見た時、わたしたちは「いや、猫じゃねーじゃん」と突っ込むことでしょう。

どうして突っ込むのかというと、わたしたちは「猫のイデア」を知っているからです。
猫のイデアとこの絵を照らし合わせてみると全く合っていないので、「この絵に描かれた動物は猫じゃない」という判断をするのです。

 

このように、イデアとは現実の物のお手本、模範、モデルにもなります。

 


3.別世界の住人イデアはこうやってこちらの世界と関わっている

 

では、現実にある物のお手本であるこのイデアは、いったいどこにあるのでしょうか。
現実に存在しているのであれば見ることができますよね。
でも、先ほども言った通り、イデアというのは理想的なもの、完璧なものなので現実に存在するはずがないのです。

 

でも、存在しないんだったらどうしてそれを知ることができるんだ?
こんな疑問を持ったプラトン先生は、考え抜いた末にこう結論づけます。

 

イデアは現実とは別の世界に存在しているんだ!」

 

「は?」となるわけですが、プラトンはこう考えてこの世を、わたしたちになじみ深い現実の世界と、イデアの存在するイデアとの二つの世界に分けて捉えました。
別世界にあるものなので、現実に存在していなくて目に見えないのも納得だよねって話になります。

 

別世界の住人であるイデアは、では、どのようにこちらの世界と関わっているのかというと、先ほど触れたように、お手本として関わってきています。

 

たとえば、街中にいる三毛猫は理想的な猫、猫そのものと呼べるような、猫のイデアではありません。
この猫がもし、理想的な猫なら、猫の絵はみんな三毛猫、つまり身体の色が三色で表現されるはずで、三毛でなければ猫じゃないと判断されることになっちゃいます。
でも現実はそうじゃないです。

 

じゃあコイツは猫じゃないのかというと、そんなことはなく、この三毛猫も猫です。
これについてイデア論的に説明すると、この三毛猫は猫のイデアを分有しているということになります。
つまりこの三毛猫は、猫のイデアそのものではないけれど、猫のイデアと同じ性質を持っているよねってことです。

 

この三毛猫には猫のイデアと同じ性質が見られるので、わたしたちはコイツを見て「あ、猫だ」と判断できるわけです。

 


4.四季のあとがき

 

以上が、プラトン先生が考えたイデア論についてです。
イデアについて一言でまとめると、理想的で完璧なもののことです。
理想的で完璧だからお手本にもなるし、判断する時の基準というか、拠り所にもなったりする。

そして、イデア論というのは人の認識にも関わってくる。


ただ、個人的にはイデア論にこだわるのはちょっと危ない気がします。

イデア論でものごとを見ていくというのは、「これが理想だ」というものを常に頭の中に持っていて、それと現実の物とを比べて判断したりするって事ですよね。
それって言い換えれば、頭の中にある理想に固執するって事だと思うんですよねー。

 

つまり、イデア論で物事を捉えるというのは固定観念で物事を見ることに繋がっちゃうのでは? と思うわけですよ。
特に理想というものは、一度持ってしまうとそれを別の理想に変えるのは難しいと思いますし。

 

というわけで、イデア論というのは一つの参考にはなりますけど、この見方は世界に対する絶対的な見方ではないということは覚えておいた方が良さそうです。

 

以上、折々四季でした。
それでは、また~。

 

 

参考文献
・『史上最強の哲学入門』 飲茶 河出文庫
・『概念と歴史がわかる西洋哲学小事典』 編=生松敬三、木田元他 ちくま学芸文庫