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社会学が教える、幸福を感じるための2大要素

幸せとは何でしょうか。
お金があることが幸せでしょうか。
それとも、好きな人と一緒にいられることが幸せでしょうか。

 

多くの人間がそれを求め、それを探し、ときにそれによって苦しめられ、絶望を味わったことと思います。
哲学や心理学をはじめ、多くの学問でも幸福については追究されてきています。

 

多くの偉人が幸せについて語っている訳ですが、今回は社会学が語る「幸福の本質的契機を成す2大要素」についてお話しします。
「契機」というのは「きっかけ」ってことですね。

つまり、どういうことをきっかけにして人は幸福感を感じるのかって所の話をしていきます。

 

以下、もくじ~。

 

 

1.自己充実~自分で自分を満たすことが大切!~

 

幸福感の本質的契機、その1は「自己充実」です。
「充実」っていうのは、リア充、つまり「リアル充実」と言うときの充実ですね。

 

いきなり何言ってんだコイツって思われたかもしれませんが、「充実」の意味合いはどちらも同じでしょう。
リア充」というのは、「リアル(現実での活動や交流)が満たされていること」ですよね。

 

自己充実というのもそんな感じです。
「自分が満たされていること」、これが自己充実です。

 

では、人はどういう時に自分が満たされるのでしょうか。
せっかくなので、具体的に考えてみて下さい。
あなたはどんな時に「自分、満たされてんなぁ~」って感じますか?

 

わたしは自分が学んで身につけた知識が誰かの役に立った時や、恥ずかしい話なんですが、思いっきりだらだらしている時なんかにすっごく嬉しくなります。

 

つまり、そういうことなんです。
人は自分の能力を最大限発揮できている時、そしてやりたいことができている時に充実感を感じるのです。

 

わたしの例で考えてみると、自分の知識が誰かの役に立ったというのは自分の能力を最大限発揮できたということです。

 

ちょっとこの例だと分かりづらそうなので、もう一つ例をあげると、スポーツをやっている時を考えてみて下さい。
サッカーでも野球でも、アルティメットでもなんでもいいです。

 

実力の半分も出さなくても勝ててしまう試合より、全力で勝ちにいくような一生懸命取り組む試合の方が「楽しい!」、「面白い!」ってなりますよね?
そういう気持ちが充実感です。

 

あと、だらだらしている時の充実感についてですが、こちらはやりたいことができているからですね。
だから別にだらだらじゃなくてもいいんですよ。

 

甘いものが食べたいと思った時に甘いものを食べる。
ゲームしたいと思った時にゲームをする。
旅行したいと思った時に旅行する。

 

このように、やりたいと思ったことがやりたいと思った時にできることで充実感が得られるのです。

 

 

2.他者との交流~自分だけでなく周りにも目を向けよう~

 

幸福感の本質的契機、その2は「他者との交流」です。
他者と関わることでわたしたちは幸福感を感じることができるのです。

 

これは特に例を挙げなくても、ウンウンと頷いてくれるのではないかと思います。
いわゆる、リア充の人たちが互いに肩を組んで、「イツメン最高! コイツらと出会えたことにマジ感謝!」的なことを言ってたりしますよね?

 

まあ、実際言ってるかは知りませんが、少なくとも友達と連むのは最高だぜってニュアンスのことはたくさんの人が言ってますよね。
これはつまり、イツメンとか友達との関わりが自分を幸福にしてくれているってことです。

 

好きな人のことを考えるともっと分かりやすいかもですね。
好きな人と一緒にいること、お喋りすること、スキンシップを取ることは幸せですよね。
それは好きな人との交流があなたに幸福感をもたらしていると言うことです。

 

ここでもう少し分析を深めると、幸福感が他者との交流から得られるといってもですね。

実は幸福感の得られ方(ルート)は2つに分けられるんですよ。

 

幸福が得られる1つ目のルートは、「他者との交流そのものによって」です。

 

これは上に挙げた好きな人の例が分かりやすいですね。
好きな人と一緒にいて幸せっていうのは、別に好きな人が自分に何かしてくれるから幸せって訳じゃあないですよね。
幸せを感じているのは、まさに「好きな人と一緒にいる」からです。
それはつまり、彼や彼女との交流そのものから歓びが得られているということです。

 

幸福が得られる2つ目のルートは、「他者からの承認によって」です。
これは簡単に言えば、承認欲求が満たされることによって幸せを感じることができるってことです。

 

人は誰しも「承認されたい! 自分を認めて欲しい!」という欲求を持っています。
マズローの欲求5段階説に則って言うと、食べることと住む場所に困っていなくて、人とそこそこ関われている人は必ず承認欲求を持っています。

 

みんな自分を認めて欲しいからSNSでイイネされるような投稿をしてみたり、創作活動で自己表現をしてみたりしているんです。
で、そういう活動を誰かに認めて貰った時にはすっごく嬉しくなるものです。
究極的には、自分が「いる」というただそれだけのことを誰かに認めて貰えると、それはもうめちゃくちゃ嬉しい訳です。
嬉しくない人などいないでしょう。

 

以上が、2つ目の幸福の本質的契機「他者との交流」な訳ですが、ここでもうちょっと考えるべきものがあります。
それは、「他者」についてです。

 

ここまで当たり前のように「他者」という言葉を使ってきましたが、では「他者」とはいったい何なんでしょうか?
「他者」とはどういった存在なのでしょうか?
ここからはこの「他者」について見ていきたいと思います。

 


3.他者は敵か味方か?

 

まあ普通に考えて、自分以外の人全員が「他者」ですよね。
あなたが今日乗った電車で近くのつり革に掴まっていたおじ様も他者ですし、飲み物や軽食を買いに立ち寄ったコンビニで働いていたパートのおば様も他者です。
当たり前のことですが、親とか兄弟も他者ですし、友達も他者です。

 

でも、みなさん。
確かに彼らは他者ですけど、それじゃあその辺の道ですれ違ったような人と、親とか友人とが、全く同じ他者だとは感じていないんじゃないでしょうか。

 

つまり他者という存在には2種類いることになります。
1つは知り合いでも何でもない、全くの赤の他人である見知らぬ他者。
もう1つは家族などの身近な他者です。
そのどちらにも共通しているのが、自分とは違うという異質性です。

 

この異質性が他者の本質なんですが、異質性があるからこそ他者は「わたし」にとって二重の構造を持つことになります。
どういう構造かというと、他者は「脅威の源泉」であり、かつ「生のあじわいの源泉」であるという構造です。

 

時に、他者は「わたし」に脅威をもたらします。
嫌みを言われたり、いじめられたり、ものを盗まれたり浮気されたり、最悪の場合は命を奪われたりします。
要するに、他者は「わたし」を攻撃し、傷つける存在でもあります。

 

時に、他者は「わたし」に生のあじわい、別の言葉で表現すれば、生きる歓びをもたらします。
一緒にいることで癒やしてくれたり、自分を励ましてくれたり、明日を生きる希望をくれたりします。
要するに、他者は「わたし」に生きることの素晴らしさ、楽しさを教えてくれる存在でもあります。

 

このように、見知らぬ他者にせよ身近な他者にせよ、他者という存在には二重の構造があります。
どの他者が自分を苦しめ、どの他者が自分を助けてくれるのか。

そんなことはその他者と関わってみないと分かりません。

 

だから多くの人が他者の二重構造に苦しめられます。
自分の味方だと思って近づいたのに傷つけられたとか、逆に嫌われているのかと思って距離を取っていた人に困っていたところを助けて貰ったとか。
世の中の多くの人が他者の不可思議な振る舞いに振り回されているのです。

 


4.四季のあとがき

 

以上の話をまとめると、わたしたちが幸福を感じるためには2つの要素が大切になります。
1つは自己充実。
もう1つは他者との交流です。

 

この他者との交流というのはさらに2つに細分化されます。
1つ目が他者との交流そのもの。
2つ目が他者からの承認。
この2つによって人は他者から幸福感を得ています。

 

しかし、他者という存在には2つの側面があります。
1つは自分に害をなす、脅威の源泉であるという側面。
もう1つは自分にプラスのことをもたらしてくれる、生のあじわいの源泉であるという側面。

 

そのため、幸福感を感じるためには他者と関わらなければいけないと言っても、他者と関係を持つ場合には、その他者が自分にとって良い存在なのかどうかをよく考えないといけません。


色んな人と関わり、有益な人脈を築くことは大切です。
しかし、だれかれ構わず交流を持っていると、もしかするともの凄く痛い目を見てしまうかもしれません。

その危険性はゼロではないということです。

そうならないために、他者の二重構造については忘れずにいたいものですね。

 

以上、折々四季でした。
それでは、また~。

 


参考文献
・『友だち幻想 人と人の〈つながり〉を考える』 菅野仁 ちくまプリマー新書