たのしる!

「知る」って楽しい!

どんな猫を見ても猫だと分かる不思議をイデア論が説明するよ

古代のギリシアには様々な哲学者がいました。
ソクラテスとか、プラトンアリストテレスなどなど、有名な偉人がごろごろいます。
まあ、それは哲学に限った話ではありませんけど。

 

「どんなことをしてたのかは知らないけど、確かに名前は聞いたことあるな~」


あなたもこんな風に思ったんじゃないですか?

 

そんな有名な古代ギリシアの哲学者の一人にプラトン先生がいらっしゃいます。
プラトンは『国家』や『メノン』、『饗宴』、『ソクラテスの弁明』などなど、実に様々な本を残していて、その思想の後世への影響力もめちゃくちゃ凄いです。

そんなスゲー先生の思想の一つ、「イデア論」を今回は取り上げてみました!

 

以下、もくじ~。


1.世の中に理想的で完璧なものなんてない

 

「猫ってなんですか?」

 

こう質問された時、「猫と言えばコイツだ!」というようにビシッと説明することができれば、猫が何か分からない人でもすぐに理解することができますよね。

 

つまり、誰もが認める理想的な猫を示すことができれば、「猫ってのは厳密に言うとこんなものだよ」と示すことができれば、猫が分からない人にも理解してもらえるでしょう。
なるほど、それが猫なのか、と。

 

では皆さん、「猫と言えばコイツだ!」と言えるものは何でしょうか?
こういうものが猫ってやつさって言う時の、「こういうもの」とは何でしょう?

 

ある人は、「猫はニャーと鳴く動物だよ」と言います。
でも、わたしたちは猫がニャーと鳴いていなくても、その姿を見て「あ、猫だ」と判断することができますよね。
じゃあ別に、猫はニャーと鳴かなければいけないというわけではなさそうです。
ニャーと鳴いていなくても猫って分かりますし。

 

別の人は、「どんな特徴があるにせよ、猫は動物の一種だよ」と言います。
これは説得力が強そうです。
実際、猫は動物ですしね。

 

でも、写真に映っている猫とかイラストで描かれた猫とかを見ても、わたしたちは「あ、猫だ」と普通に判断します。
もし猫が動物でなければいけないのなら、動物でない写真やイラストの猫(つまり、二次元の猫)を見ても、それを猫だとは判断できないはずです。

 

もちろん、写真や絵の猫と動物の猫とは全く違います。
片方は二次元の存在で全く動かず、もう片方は三次元の存在で動いて生きています。
けれど、両方とも同じ「」ですよね?
そうするとどうも、猫というのは動物でなくてもいい、ということになりそうです。

 

こんな感じでみていくと、「猫と言えばコイツだ!」と呼べるようなもの、「猫って言うのは厳密に言うとこんなものさ」と呼べるものは世の中には存在しないと言えます。
理想的な猫なんて現実にはいないって事ですね。

これは猫に限らない話で、この世に理想的で完璧なものなんて存在しないのです。

 


2.まさに理想的! お手本となるものがイデア

 

まさに猫そのもの」と呼べるような、理想的な猫なんて現実には存在しません。
だからわたしたちには彼らを見ることはできないのですが、でも、頭の中に思い描くことはできます。

その特徴を言葉で事細かく説明するのは難しいかもしれませんが、それでも「猫そのもの」と呼べるような理想的な猫を思い描くことは誰でもできるはずです。

 

この「猫そのもの」というのを、プラトン先生は「猫のイデア」と呼びました。
要するに、イデアというのは「○○そのもの」、「理想的な○○」というもののことです。

そしてイデアは、物のお手本にもなります。

 

猫の絵を描く人は「猫のイデア」をお手本にして描くので、耳を兎のように長くしたりしませんし、象のように鼻を長くしたりもしません。
そうしてしまうと、お手本である「猫のイデア」から離れ、猫ではなくなってしまうことを描き手は知っているからです。

 

また、尾ひれなどがあり、水の中を泳いでいる動物が絵に描かれていて、そのタイトルが「猫」だったのを見た時、わたしたちは「いや、猫じゃねーじゃん」と突っ込むことでしょう。

どうして突っ込むのかというと、わたしたちは「猫のイデア」を知っているからです。
猫のイデアとこの絵を照らし合わせてみると全く合っていないので、「この絵に描かれた動物は猫じゃない」という判断をするのです。

 

このように、イデアとは現実の物のお手本、模範、モデルにもなります。

 


3.別世界の住人イデアはこうやってこちらの世界と関わっている

 

では、現実にある物のお手本であるこのイデアは、いったいどこにあるのでしょうか。
現実に存在しているのであれば見ることができますよね。
でも、先ほども言った通り、イデアというのは理想的なもの、完璧なものなので現実に存在するはずがないのです。

 

でも、存在しないんだったらどうしてそれを知ることができるんだ?
こんな疑問を持ったプラトン先生は、考え抜いた末にこう結論づけます。

 

イデアは現実とは別の世界に存在しているんだ!」

 

「は?」となるわけですが、プラトンはこう考えてこの世を、わたしたちになじみ深い現実の世界と、イデアの存在するイデアとの二つの世界に分けて捉えました。
別世界にあるものなので、現実に存在していなくて目に見えないのも納得だよねって話になります。

 

別世界の住人であるイデアは、では、どのようにこちらの世界と関わっているのかというと、先ほど触れたように、お手本として関わってきています。

 

たとえば、街中にいる三毛猫は理想的な猫、猫そのものと呼べるような、猫のイデアではありません。
この猫がもし、理想的な猫なら、猫の絵はみんな三毛猫、つまり身体の色が三色で表現されるはずで、三毛でなければ猫じゃないと判断されることになっちゃいます。
でも現実はそうじゃないです。

 

じゃあコイツは猫じゃないのかというと、そんなことはなく、この三毛猫も猫です。
これについてイデア論的に説明すると、この三毛猫は猫のイデアを分有しているということになります。
つまりこの三毛猫は、猫のイデアそのものではないけれど、猫のイデアと同じ性質を持っているよねってことです。

 

この三毛猫には猫のイデアと同じ性質が見られるので、わたしたちはコイツを見て「あ、猫だ」と判断できるわけです。

 


4.四季のあとがき

 

以上が、プラトン先生が考えたイデア論についてです。
イデアについて一言でまとめると、理想的で完璧なもののことです。
理想的で完璧だからお手本にもなるし、判断する時の基準というか、拠り所にもなったりする。

そして、イデア論というのは人の認識にも関わってくる。


ただ、個人的にはイデア論にこだわるのはちょっと危ない気がします。

イデア論でものごとを見ていくというのは、「これが理想だ」というものを常に頭の中に持っていて、それと現実の物とを比べて判断したりするって事ですよね。
それって言い換えれば、頭の中にある理想に固執するって事だと思うんですよねー。

 

つまり、イデア論で物事を捉えるというのは固定観念で物事を見ることに繋がっちゃうのでは? と思うわけですよ。
特に理想というものは、一度持ってしまうとそれを別の理想に変えるのは難しいと思いますし。

 

というわけで、イデア論というのは一つの参考にはなりますけど、この見方は世界に対する絶対的な見方ではないということは覚えておいた方が良さそうです。

 

以上、折々四季でした。
それでは、また~。

 

 

参考文献
・『史上最強の哲学入門』 飲茶 河出文庫
・『概念と歴史がわかる西洋哲学小事典』 編=生松敬三、木田元他 ちくま学芸文庫

差別ってやつを経済学の視点から見てみた

人と違う事をしているだけで変な目で見られてしまう人。

LGBTというだけで偏見を持たれてしまう人。

いじめられ、自ら命を絶ってしまう人。

 

差別や偏見って、自分にはあんまり関係ないかもって思いがちです。

日本にいると人種差別を意識することも無いですし。

でも上に挙げたように、よくよく考えてみると差別や偏見って結構身の回りに溢れていることなんですよね。

自分の中に差別意識とか偏見があるってことを自覚していない人も多そうです。

 

だから、差別や偏見ってものについて、ちゃんと知識をつける事はとても大切だと思っています。

今回はそんな差別とか偏見について、経済学の視点から見ていこうと思います。

 

以下、もくじ~。

 

 

1.市場原理は差別をなくすって本当?

 

市場の原理を考えれば差別なんてものは無くなっていくはずだ。

それは差別する経営者が市場で生き残っていけないからだ。

 

こんな主張をしたのはアメリカの経済学者ゲーリー・ベッカーです。

彼が考えていた差別というのは人種差別のことです。

つまり、「黒人と白人の二人の就職希望者がいて、どちらも生産性が同じであるとしても経営者は白人ばかりを雇う」というような差別のことです。

このような差別は市場原理によって無くなるはずだと彼は主張したんですね。

 

彼の考えを詳細にみる前に、まず市場原理について確認しておきましょー。

市場原理とは、

市場がさまざまな過不足やアンバランスを自ら調整し最適化する仕組みや機能。商品の価格、需要と供給、労働市場などさまざまな場面で、多くの市場参加者が自己利益を追求することで働くとされる。

 

[コトバンクより引用

https://kotobank.jp/word/%E5%B8%82%E5%A0%B4%E5%8E%9F%E7%90%86-519444]

一言で言うと、市場では自己利益が追求されるってことです。

 

では、この市場原理がどうして差別をなくすことにつながるのか?

それを確認していきましょう。

 

まず、黒人に対する偏見が市場にあるとします。

これは白人と黒人とで市場における需要に違いがあるということを意味します。

需要に差があることは彼らの給与にも影響を与えます。

つまり、黒人の人件費の方が白人の人件費よりも安いという状況になります。

 

この時、黒人に偏見を持つ経営者の場合は、たとえ彼らが白人と同じ生産性を誇るとしても、黒人よりも高くつく白人の方を雇います。

そりゃあ黒人に対して差別意識持ってるから彼らを雇おうとはしないでしょうね。

 

反対に、黒人に偏見を持っていない経営者は黒人を雇うでしょう。

だって彼らの生産性は白人と変わらないにもかかわらず、彼らの方がコストが安いんですから。

安い方を選ぶのは理に適っています。

 

ここで、先程の市場原理を考えてみましょう。

市場原理というのは、市場では自己利益を追求されること、でしたね?

これは自己利益を追求しないものは淘汰されていくということを内に含んでいます。

利益を追求しないと生き残れませんからね。

 

では、黒人に偏見を持つ経営者と偏見を持っていない経営者とでは、どちらが生き残っていくでしょうか。

 

答えは、偏見を持っていない経営者です。

理由は簡単で、偏見を持っている経営者の方が無駄なコストを払っているからです。

 

彼らが無駄に掛けているコスト分を偏見のない経営者は別のところに投資できますから、経営に差が生じてきます。

結果として、利益に差ができ、偏見を持っている経営者が淘汰されていきます。

または、偏見があったとしても黒人を雇うようになります。

 

このようになってくると、市場における白人と黒人の需要の差が無くなり、給与に差が無くなります。

要するに、市場における人種差別が消えてなくなるということです。

 

以上がベッカーの主張になります。

しかし、現実はそう簡単にはできていません。

 

市場原理が徹底されているアメリカでさえ、雇用に関する人種差別は消えていません。

実はこれには別の要因があったんです。

 

 

2.統計データが差別を生むこともあるってマジですか!?

 

別の要因とは何か。

それは、アメリカの経済学者ケネス・アローの考える統計的差別です。

彼によれば、統計データが差別を助長しているというのです。

 

黒人に偏見のある市場では最初、白人と黒人の給与に差が生まれるということを話しました。

さっきの話では、市場原理によってこの差は無くなっていくという事でした。

でもそれは、彼らの生産性が同じだということを経営者側は知っている、という前提に基づいています。

この前提が成り立たなければ、市場から差別は消えません。

 

白人と黒人とでどちらが生産性が高いのか分からない場合には、経営者は統計データをもとに判断を下そうとします。

その統計データは黒人と白人とで需要に差のある市場で取られたデータのため、多くの黒人が白人より給料の安い仕事に就いていることを示します。

それをもとに経営者が雇うか雇わないかの判断を下すんですから、結果として差別が無くならないという事です。

 

つまり、その偏った統計データを見た経営者はこう判断するのです。

 

「統計データによると、白人の方が黒人よりも給料の高い仕事に就いている割合が高い。

ということは、おそらく白人の方が生産性が高いのだろう。

なら、黒人よりも白人を雇った方が良いに違いない」、と。

 

生産性っていうのは、要は仕事がどれだけできるかってことです。

だからって、給与の高い人の方が生産性が高い(仕事ができる)とは限らないだろっていう突っ込みがあるのはごもっとも。

でも、たとえば次のような場面を想像してみてください。

 

あなたは手作り帽子が欲しいと思っています。

この世で一品物の帽子を作ってもらうんですから、当然、長持ちする質のいいものが欲しいですよね?

 

そんなあなたの目の前には、AさんとBさんという、2人の帽子職人がいます。

2人とも帽子作りの腕は同等ですが、あなたはその情報を全く知りません。

 

帽子の制作依頼料は、Aさんは500円、Bさんは2000円です。

この時、あなたはどちらの職人の方が良い物を作ってくれると思うでしょうか?

(つまり、どちらの方が生産性が高いと予想するでしょうか?)

 

おそらくあなたは、値段の高いBさんの方がいい帽子を作ってくれると思ったんじゃないでしょうか?

Aさんよりも金額が高いのだから、Aさんよりも良い物を作ってくれるに違いない、と。

実際には、AさんとBさんとで技量に差は無いのにもかかわらず。

 

要するに、こういう事が市場においても起きるという事です。

 

これが繰り返されればどうなるかというと、黒人は白人よりも給料の低い仕事に就いているということが、彼らの実際の生産性の高さに関わらず、データとして蓄積されていきます。

すると、黒人が給料の安い仕事に就いているという事実が重なっていき、結果としてそれが黒人に対する偏見を生みだすことになるのです。

 

統計的差別の嫌な所は、偏見を持っていなくても差別をしてしまう危険性があるという事です。

 

 

3.四季のあとがき

 

今回の記事で扱った差別というのは、あくまでも「市場における差別」ということで、世にはびこる数ある差別の内の1つだけでした。

 

しかし、たった1種類の差別にもかかわらず、それが生み出されるメカニズムは思っていた以上に複雑でした。

わたしは実際そう感じましたし、この記事を読んでわたしと同じように感じた方もいらっしゃるのではないかと思います。

 

そして市場参加者の一人にすぎないわたしには、この差別をなくすというのはあまりにもスケールのでかいこと。

まず、不可能でしょう。

 

でも、もうこの差別について知ることができたんですから、少なくとも自分の周りにおいてこの手の差別をするのはやめようってことはできます。

他の記事でも似たようなことを書いたかもしれませんが、このように事実を知るってだけでもめちゃくちゃ大切です。

そして、学んだ知識を小さなことに活かすことから始めるというのは、もっともっと大切です。

 

偏見とか差別って、無意識的にやってしまっていることも多いものです。

でなければ、差別は悪いことだってみんな思ってんだから、差別が行われることはもっと少ないはずです。

現実がそうなっていないのは、善良な市民でさえ、無意識的に差別的な行動をしているからってことでしょう。

 

そうならないためにも、ちゃんと知識をつけ、自分の行動に意識を向けられるようになっていきたいですね。

 

以上、折々四季でした。

それでは、また~。

 

 

参考文献

・『やさしい行動経済学』 日本経済新聞社-編 日経ビジネス人文庫

 

 

社会学が教える、幸福を感じるための2大要素

幸せとは何でしょうか。
お金があることが幸せでしょうか。
それとも、好きな人と一緒にいられることが幸せでしょうか。

 

多くの人間がそれを求め、それを探し、ときにそれによって苦しめられ、絶望を味わったことと思います。
哲学や心理学をはじめ、多くの学問でも幸福については追究されてきています。

 

多くの偉人が幸せについて語っている訳ですが、今回は社会学が語る「幸福の本質的契機を成す2大要素」についてお話しします。
「契機」というのは「きっかけ」ってことですね。

つまり、どういうことをきっかけにして人は幸福感を感じるのかって所の話をしていきます。

 

以下、もくじ~。

 

 

1.自己充実~自分で自分を満たすことが大切!~

 

幸福感の本質的契機、その1は「自己充実」です。
「充実」っていうのは、リア充、つまり「リアル充実」と言うときの充実ですね。

 

いきなり何言ってんだコイツって思われたかもしれませんが、「充実」の意味合いはどちらも同じでしょう。
リア充」というのは、「リアル(現実での活動や交流)が満たされていること」ですよね。

 

自己充実というのもそんな感じです。
「自分が満たされていること」、これが自己充実です。

 

では、人はどういう時に自分が満たされるのでしょうか。
せっかくなので、具体的に考えてみて下さい。
あなたはどんな時に「自分、満たされてんなぁ~」って感じますか?

 

わたしは自分が学んで身につけた知識が誰かの役に立った時や、恥ずかしい話なんですが、思いっきりだらだらしている時なんかにすっごく嬉しくなります。

 

つまり、そういうことなんです。
人は自分の能力を最大限発揮できている時、そしてやりたいことができている時に充実感を感じるのです。

 

わたしの例で考えてみると、自分の知識が誰かの役に立ったというのは自分の能力を最大限発揮できたということです。

 

ちょっとこの例だと分かりづらそうなので、もう一つ例をあげると、スポーツをやっている時を考えてみて下さい。
サッカーでも野球でも、アルティメットでもなんでもいいです。

 

実力の半分も出さなくても勝ててしまう試合より、全力で勝ちにいくような一生懸命取り組む試合の方が「楽しい!」、「面白い!」ってなりますよね?
そういう気持ちが充実感です。

 

あと、だらだらしている時の充実感についてですが、こちらはやりたいことができているからですね。
だから別にだらだらじゃなくてもいいんですよ。

 

甘いものが食べたいと思った時に甘いものを食べる。
ゲームしたいと思った時にゲームをする。
旅行したいと思った時に旅行する。

 

このように、やりたいと思ったことがやりたいと思った時にできることで充実感が得られるのです。

 

 

2.他者との交流~自分だけでなく周りにも目を向けよう~

 

幸福感の本質的契機、その2は「他者との交流」です。
他者と関わることでわたしたちは幸福感を感じることができるのです。

 

これは特に例を挙げなくても、ウンウンと頷いてくれるのではないかと思います。
いわゆる、リア充の人たちが互いに肩を組んで、「イツメン最高! コイツらと出会えたことにマジ感謝!」的なことを言ってたりしますよね?

 

まあ、実際言ってるかは知りませんが、少なくとも友達と連むのは最高だぜってニュアンスのことはたくさんの人が言ってますよね。
これはつまり、イツメンとか友達との関わりが自分を幸福にしてくれているってことです。

 

好きな人のことを考えるともっと分かりやすいかもですね。
好きな人と一緒にいること、お喋りすること、スキンシップを取ることは幸せですよね。
それは好きな人との交流があなたに幸福感をもたらしていると言うことです。

 

ここでもう少し分析を深めると、幸福感が他者との交流から得られるといってもですね。

実は幸福感の得られ方(ルート)は2つに分けられるんですよ。

 

幸福が得られる1つ目のルートは、「他者との交流そのものによって」です。

 

これは上に挙げた好きな人の例が分かりやすいですね。
好きな人と一緒にいて幸せっていうのは、別に好きな人が自分に何かしてくれるから幸せって訳じゃあないですよね。
幸せを感じているのは、まさに「好きな人と一緒にいる」からです。
それはつまり、彼や彼女との交流そのものから歓びが得られているということです。

 

幸福が得られる2つ目のルートは、「他者からの承認によって」です。
これは簡単に言えば、承認欲求が満たされることによって幸せを感じることができるってことです。

 

人は誰しも「承認されたい! 自分を認めて欲しい!」という欲求を持っています。
マズローの欲求5段階説に則って言うと、食べることと住む場所に困っていなくて、人とそこそこ関われている人は必ず承認欲求を持っています。

 

みんな自分を認めて欲しいからSNSでイイネされるような投稿をしてみたり、創作活動で自己表現をしてみたりしているんです。
で、そういう活動を誰かに認めて貰った時にはすっごく嬉しくなるものです。
究極的には、自分が「いる」というただそれだけのことを誰かに認めて貰えると、それはもうめちゃくちゃ嬉しい訳です。
嬉しくない人などいないでしょう。

 

以上が、2つ目の幸福の本質的契機「他者との交流」な訳ですが、ここでもうちょっと考えるべきものがあります。
それは、「他者」についてです。

 

ここまで当たり前のように「他者」という言葉を使ってきましたが、では「他者」とはいったい何なんでしょうか?
「他者」とはどういった存在なのでしょうか?
ここからはこの「他者」について見ていきたいと思います。

 


3.他者は敵か味方か?

 

まあ普通に考えて、自分以外の人全員が「他者」ですよね。
あなたが今日乗った電車で近くのつり革に掴まっていたおじ様も他者ですし、飲み物や軽食を買いに立ち寄ったコンビニで働いていたパートのおば様も他者です。
当たり前のことですが、親とか兄弟も他者ですし、友達も他者です。

 

でも、みなさん。
確かに彼らは他者ですけど、それじゃあその辺の道ですれ違ったような人と、親とか友人とが、全く同じ他者だとは感じていないんじゃないでしょうか。

 

つまり他者という存在には2種類いることになります。
1つは知り合いでも何でもない、全くの赤の他人である見知らぬ他者。
もう1つは家族などの身近な他者です。
そのどちらにも共通しているのが、自分とは違うという異質性です。

 

この異質性が他者の本質なんですが、異質性があるからこそ他者は「わたし」にとって二重の構造を持つことになります。
どういう構造かというと、他者は「脅威の源泉」であり、かつ「生のあじわいの源泉」であるという構造です。

 

時に、他者は「わたし」に脅威をもたらします。
嫌みを言われたり、いじめられたり、ものを盗まれたり浮気されたり、最悪の場合は命を奪われたりします。
要するに、他者は「わたし」を攻撃し、傷つける存在でもあります。

 

時に、他者は「わたし」に生のあじわい、別の言葉で表現すれば、生きる歓びをもたらします。
一緒にいることで癒やしてくれたり、自分を励ましてくれたり、明日を生きる希望をくれたりします。
要するに、他者は「わたし」に生きることの素晴らしさ、楽しさを教えてくれる存在でもあります。

 

このように、見知らぬ他者にせよ身近な他者にせよ、他者という存在には二重の構造があります。
どの他者が自分を苦しめ、どの他者が自分を助けてくれるのか。

そんなことはその他者と関わってみないと分かりません。

 

だから多くの人が他者の二重構造に苦しめられます。
自分の味方だと思って近づいたのに傷つけられたとか、逆に嫌われているのかと思って距離を取っていた人に困っていたところを助けて貰ったとか。
世の中の多くの人が他者の不可思議な振る舞いに振り回されているのです。

 


4.四季のあとがき

 

以上の話をまとめると、わたしたちが幸福を感じるためには2つの要素が大切になります。
1つは自己充実。
もう1つは他者との交流です。

 

この他者との交流というのはさらに2つに細分化されます。
1つ目が他者との交流そのもの。
2つ目が他者からの承認。
この2つによって人は他者から幸福感を得ています。

 

しかし、他者という存在には2つの側面があります。
1つは自分に害をなす、脅威の源泉であるという側面。
もう1つは自分にプラスのことをもたらしてくれる、生のあじわいの源泉であるという側面。

 

そのため、幸福感を感じるためには他者と関わらなければいけないと言っても、他者と関係を持つ場合には、その他者が自分にとって良い存在なのかどうかをよく考えないといけません。


色んな人と関わり、有益な人脈を築くことは大切です。
しかし、だれかれ構わず交流を持っていると、もしかするともの凄く痛い目を見てしまうかもしれません。

その危険性はゼロではないということです。

そうならないために、他者の二重構造については忘れずにいたいものですね。

 

以上、折々四季でした。
それでは、また~。

 


参考文献
・『友だち幻想 人と人の〈つながり〉を考える』 菅野仁 ちくまプリマー新書

作品を通して世の中を見る! 美術史は何をやっている学問か

「美術」という言葉から、あなたはどんなことを思い浮かべますか?

絵だったり彫刻だったり、はたまた中学校の美術の時間を思い浮かべるでしょうか。

自分が創作しているところを想像する人もいれば、誰かが作った作品を想像する人もいるでしょうね。

 

では、「美術史」という言葉からあなたは何を思い浮かべますか?

「誰それがいついつにこの作品を作ったとか、そういうことを覚える勉強?」という人もいれば、「美術の流れを追う学問でなんか敷居が高そう」という人もいるかと思います。

 

美術史。

読んで字のごとく美術の歴史という事ですが、この学問はいったい何をやっているんでしょうか。

美術の歴史なんか勉強して何が分かるのでしょう?

今回はそんな疑問から始まる、美術史(西洋美術史)についての記事になります。

 

以下、もくじ~。

 

 

1.昔々、絵画はメッセージを伝えるメインツールだった!

 

現代の人々にとってメッセージを伝えるメインツールというのは言葉、特に文字だと思います。

映像とか写真とか音声とか色々あるのになんで文字なのって思うかもしれませんが、わたしたちの身の回りには文字がもの凄く溢れています。

 

新聞に本、街中の看板や広告、SNSでの友達の投稿などなど。

挙げていけばキリがありません。

テレビとかYouTube動画ですら文字というのは顔を出しています。

文字こそ、わたしたちの意志伝達の主流なんだということです。

 

でも昔はそうではありませんでした。

「え? 昔の人だって言葉話してるじゃん」という突っ込みにはこう返しましょう。

「確かに言葉は話していたけど、今みたいに色んな人が文字を読み書きしていた訳じゃないんだよ」って。

 

今の時代では世界中の多くの人が教育を受け、それぞれの国の言語を読み書きできるようになっています。

できる現代人なんかは複数の言葉を話したり読んだり書いたりしています。

わたしはできない現代人なので、そういう人が羨ましい限りです。

 

しかし、昔の社会は今よりもぐんと識字率が低かったのです。

文字の読み書きができるのは王侯貴族や裕福な商人といった、いわゆる上流階級の人達だけ。

 

そんな世の中なので、不特定多数の一般市民に何か伝えたいことがあった時には文字ではダメでした。

だから、文字なんか読めなくても、もっと直接的に理解できるような物がメッセージの伝達手段として使われました。

そう。それが絵画です。

 

たくさんの人に伝えたいことって何やねん、という疑問が湧いて洗濯機も喉を通らない人のために説明しますと、昔の人々が多くの一般市民に伝えていたメッセージの大部分は宗教的なメッセージになります。

 

西洋美術においてはキリスト教です。

キリスト教の教えを広く人々に伝え、信仰を保つためにも、絵画を通して聖書の内容を伝える必要があったのです。

そんなわけで、西洋美術とキリスト教教会との間には深い結びつきがあります。

 

 

2.美術と言っても色んな学問分野があるんですよ

 

絵にはメッセージが込められています。

その作品が生み出された当時の人々の考え方や世界観が秘められているのです。

 

だから美術作品を研究する美術史には、美術作品を通して「人間と人間社会を知る」という側面があります。

つまり、美術史というのは哲学的側面もあるということです。

「人間と人間社会を知る」というのはまさに、わたしたちを取り巻く世界についての探究という事に他ならないからです。

 

ただ、「美術史」というのは歴史学的側面が強い分野です。

哲学的側面の強い分野は「美学」と呼ばれ、別の学問として分かれています。

そしてこの「美術史」と「美学」とを合わせた学問領域を「芸術学」と呼んでいます。

 

美術系の学問は他にもたくさんありますが、ここではさらに2つ、美術史に関係する重要な学問を紹介します。

 

一つは図像学(イコノグラフィー)」です。

先ほどから、絵にはメッセージがあるという話をしてきました。

図像学というのは、「絵に描かれたこのものは、これこれこういった意味を持っている」という事、「こういった意味を示すために、このような図像が描かれた」という事を扱う学問です。

美術作品からメッセージを読み取るのに図像学は超重要なのです。

 

もう一つは「図像解釈学(イコノロジー)」です。

図像解釈学というのは、図像を分析し構造を知る学問のことです。

もっとざっくり言えば、「その絵がなぜ描かれたのか」ということを考える学問です。

 

 

3.視覚言語としての絵~図像(記号)と意味の関係について~

 

あるメッセージが込められている絵というものは、言い換えれば、視覚言語なのです。

普通の言語は、言葉だったり文字だったりで情報の伝達を行います。

一方、視覚言語というのは、ある記号に特定の意味を持たせ、その記号を見るということだけで情報の伝達を行います。

 

絵画には様々な図像が描かれています。

この図像は記号の一種に他なりません。

だから絵のメッセージを読むというのは、記号を読んでその意味を理解するということになります。

 

では、記号とそれが示す意味とはどんな関係があるのでしょうか。

「1+2=3」という具体例を挙げて考えていきましょー。

 

この例を見て、全く意味が分からないという人はいないと思います。

かつて小学生だった人なら誰でも理解できる、とっても簡単な数式ですよね!

 

なんで苦も無く理解できたのかと言えば、わたしたちが数式の記号の意味を理解しているからです。

「A+B」とは、「AとBを足し合わせる」ということですよね。

それから「A=B」とは、「AとBとが等しい」ということですね。

このように、わたしたちは「+」や「=」の意味を知っているからこそ、「1+2=3」という数式が正しいということを理解できるのです。

 

もしこの数式が「1$2※3」とかだったらどうですか?

全く意味が分からないですよね?

「1$2」が「1と2を足し合わせる」ということを意味していたとしても、この「$」という記号の意味をわたしやあなたが知っていなければ理解できないですよね。

同様に、「※」という記号が「=」と同じ意味だったとしても、それをわたしやあなたが知っていなければ理解なんてできません。

 

つまり、記号を使ったコミュニケーションというものは、情報の送り手と受け手の間で「この記号はこういった意味を表わしますよ」という約束事を共有していないと成立しないってことなんです。

 

さっきの例で言えば、送り手と受け手の間で「+は左右のものを足し合わせるという意味、=は左右のものが等しいという意味を表わしますよ」っていう約束事を共有しているからこそ、「1+2=3」という数式の意味が理解できていたのです。

この約束事のことを「コード」と呼びます。

 

コードは、時代によって、そして社会によって変わってきます。

たとえば、「鳩」というのは昔はただ単に動物としての「ハト」を意味していただけでしたが、時代が下ると「平和」ということも意味するようになりました。

このようにコードは変化していくものなので、昔のコードというのは失われてしまう事も多々あります。

 

その結果、美術作品に込められているコードについても分かっていない事だらけです。

美術史は美術作品を通して人間や人間社会を探究する学問なので、絵のメッセージを読み取らなければなりません。

そのためにはまず、失われてしまったコードをあの手この手を使って発掘しなくてはいけないことになります。

 

このコードの再発掘作業を担っているのが図像学です。

だから図像学は美術史にとって超重要なんですね~。

 

 

4.四季のあとがき

 

美術館に行くことが趣味の一つなわたしですが、美術史っていうのがどんなことをしている学問なのかあんまり分かっていませんでした。

でも、今回は美術史についての本を読んで、美術史ってのが美術作品を通して人間について考察する学問なんだということを知って、なんだか親近感を覚えました。

 

なるほど!

美術史っていうのは単に作品の経歴とかを学ぶようなつまらない学問じゃなくって、哲学とかにも通じる面白そうな学問なんだって。

 

特に図像学とか図像解釈学に詳しくなると、より一層美術館巡りが楽しくなりそうですね!

 

以上、折々四季でした。

それでは、また~。

 

 

参考文献

・『西洋美術史入門』 池上英洋 ちくまプリマー新書

脳を鍛えて挑戦できる人になるための4つのポイント

わたしたちの身体を取りまとめているのは他でもない脳です。

なので、「何でもそつなくこなせる人になりたい!」だとか、「色んなことができる人になりたい!」だとか、「自分に自信が持てる様な特技を身に付けたい!」って場合は脳を鍛えるといいです。

だってそうでしょ?

身体を動かしているのはわたしたちの脳なんですから。

 

今回は脳を鍛えるとどんないいことがあるのか、脳を鍛える時のコツについて書いていきます。

人によっては実践するのが難しいなぁって思うかもしれませんが、こういうのはできる事からコツコツやっていくのが吉ですので、めげずに頑張っていきましょうね!

 

以下、もくじ~。

 

 

1.新しいことするのが億劫? そんなあなたはいつも同じことしてません?

 

あなたは普段どんな生活を送っていますか?

朝起きたら歯を磨いて、平日なら学校や職場へ電車などを使って行き、友人や同僚といつものように会話をし、お風呂で体を洗って寝る。

まあ、だいたいこんな感じの日常ですよね? わたしもそうです。

 

普段意識してませんけど、いつもやっている行動というのは次のように言い表せます。

その時々の文脈を読み取り、それに適した行動なのだと。

こういった行動では脳の眼窩前頭皮質という部分が働いているのですが、ここばかりを使っていると困った事が起こりえます。

それは、慣れないことをする時に凄くしんどくなってしまう、ということです。

 

新しいことをするのにしんどさばかりだと、どうでしょうか。

どんどん新しいことをやろうという気が無くなってきますよね?

そうすると日常生活がどんどんつまらないものになっていってしまいます。

 

そうならないためにも脳を鍛えましょう。

脳を鍛えることでチャレンジしやすい自分になりましょう。

そんな自分になれれば、自分に自信が持てるようになりますし、様々な経験があなたの可能性の開花を手伝ってくれるようになります。

 

 

2.脳は新しいことが好き! チャレンジして脳を変えよう!

 

脳は新しいことが好きです。

もっと詳しく言えば、新しいことにはいつも付きまとう予想外の出来事が脳の大好物なのです。

予測できないことを経験することで脳は活性化し、成長します。

 

物事が、ある時には規則的に起き、ある時にはランダムに起こるようなことを「偶有性」といいます。

そのため、脳は偶有性が好き、と言い換える事もできます。

 

では、脳はなぜ偶有性が好きなのでしょう?

「想定外の事って疲れるから無い方がいいじゃん」って思いません?

その理由は脳の可塑性にあります。

 

可塑性とは、

固体に外力を加えて変形させ、力を取り去ってももとに戻らない性質。塑性

 

小学館 デジタル大辞泉より/

https://kotobank.jp/word/%E5%8F%AF%E5%A1%91%E6%80%A7-44854

つまり、可塑性とは変わる事ができる性質、変化できる性質ということです。

 

脳は変わることができるので常に変わりたがっています。

今の状態から変化するために経験したことの無い刺激を求めます。

だから脳は偶有性のある新しいことが好きなのです。

 

脳の欲するままに新しいことに挑戦していくと非常にいいことがあります。

それは「汎化」をスムーズに行えるようになるという事です。

 

ここでの「汎化」とは、ざっくり言うと、以前の経験から学んだことを別の経験の際に応用して役立てることをいいます。

たとえば、英語を学んだ経験を活かしてドイツ語を効率的に学ぶ、とかです。

動詞は2番目に来るなどのように、ドイツ語と英語との共通点はいくつかあるので、英語がある程度できているとその経験は必ずドイツ語学習でも役立ちます。

もちろん、逆も然りです。

 

人間の脳には順応性があります。

どんな新しいことでも、続けていれば慣れていき、スムーズに行う事ができるようになります。

 

けれども、やっぱり新しいことに挑戦するのってなんかハードル高いですよね。

いざやってみたものの、緊張しちゃって上手くできないことなんてざらです。

緊張しないように、なんていうのは無理ですよね~。

だって、失敗したくないから集中しようとして緊張しちゃうんですもんね。

 

しかし、この緊張状態というのはパフォーマンスを著しく低下させます。

そのため、理想的な状態というのはリラックスしつつも集中することです。

これがいわゆる「フロー状態」というやつで、脳の真ん中あたりの「ディフォルト・ネットワーク」と呼ばれるところが活発になっている状態です。

 

新しいことに緊張してしまうわたしと同じタイプの人は、このディフォルト・ネットワークが上手く機能していないと言えます。

なので、この部分の働きを鍛えれば新しいことに挑戦しやすくなるってことです。

 

それでは、ディフォルト・ネットワークを鍛えて挑戦できる人になるための4つのポイントを紹介します。

 

 

3.挑戦できない? 挑戦できる人になるための4つのポイント

 

3-1.初めての体験に慣れる

 

初めてのことに慣れましょう。

大きなことでなくていいです。

すごく小さなことで十分です。

 

たとえば、普段は行かないお店にランチに行くとか。

利き手じゃない方の手でスマホをいじってみるとか。

 

そんなレベルからでOKです。

まずは日常生活の中で簡単にできる新しいこと、初めてのことから初めて徐々に慣れていきましょう。

 

 

3-2.場数を踏む

 

場数を踏みましょう。

新しいことに挑戦するのがハードル高いのは失敗を恐れるからではないでしょうか。

この失敗経験ですが、いつも同じだけのダメージを受けるとは限りません。

 

どんなことでも最初の失敗が一番キツイのです。

でも2回目、3回目と失敗経験を積み重ねていくと失敗することに慣れ、そんなにダメージを負わないで済みます。

 

「しゃーねー。次ぎいくか、次」

というように軽く流せるようになります。

なので、場数を踏んで失敗に慣れていきましょう。

 

 

3-3.試しにやってみる

 

沢山の初めてのことをやり、場数を踏んで失敗に慣れるためには色んなことを試しにやってみる、という姿勢が大切です。

「よし! やるぞっ!」と意気込むより、「とりあえずやってみっか」くらいの方がいいです。

気軽にできますし、失敗してもあんまり落ち込まずに済みます。

 

気軽というのは大切です。

挑戦することを自分の中で大事にしてしまうと、一歩踏み出す足が重くなってしまいます。

そうなると、小さな挑戦もしなくなってしまうため、「とりあえず」という気軽さが重要なのです。

 

 

3-4.決して立ち止まらない

 

小さな挑戦を沢山していけば失敗だって沢山経験するでしょう。

そんな時でも決して立ち止まらないでください。

立ち止まらないというのはどういう事かというと、要するに失敗しても気にしすぎるなってことです。

 

「とりあえずやる」精神で色んなことに挑戦し、場数を踏んで初めての体験や失敗に慣れるためには、一つ一つの失敗でいちいち立ち止まっていてはいけません。

立ち止まってしまうと次の挑戦が億劫になりかねませんし、何より精神衛生上よろしくありません。

 

失敗した原因を考察することは大事ですが、失敗したことをくよくよ考える必要はありません。

上にも書いたとおり、失敗しても「しゃーねー。次行くか、次」という態度で他の事にチャレンジしていきましょう。

 

 

4.四季のあとがき

 

挑戦っていうのはどうしても敷居が高いと感じてしまいます。

だって失敗するのが怖いもの。

経済的に損失を被るかもしれないし、他の人から批判を受けるかもしれませんし。

 

でも、自分が恐れてしまうような大きな挑戦からしなくてもいいんです。

小さな挑戦を積み重ねて、成功と失敗に慣れていき、徐々に挑戦の規模を大きくしていけばそれでいいのです。

 

上の4つのポイントを意識して挑戦していくことで、脳のディフォルト・ネットワークは鍛えられます。

そうすることによって、段々と挑戦できる人になっていけるのです。

 

ということで!

わたしもまずは、利き手とは逆の手でスマホをいじるところから挑戦する日々をスタートさせようと思います。

 

以上、折々四季でした。

それでは、また~。

 

 

参考文献

・『結果を出せる人の脳の習慣』 茂木健一郎 廣済堂新書 

超音波を利用して生きる。コウモリさんは反響定位の達人

もうどーいは。

超音波を感じてみたい折々四季です。

 

ガの中には後翅から長い尾が垂れている種がいるのですが、7月4日付けの科学誌「Science Advnces」に発表された研究によると、この一見すると目立ってしまう長い尾は天敵であるコウモリから逃げるのに一役買っているそうです。

何でも、コウモリの反響定位の音波を逸らす役割をしているのだとか。

 

今回はそれに関連して、コウモリと超音波について話していきます。

以下、もくじ~。

 

 

1.音波で周囲の状況をチェックする反響定位とは?

 

あなたは反響定位ってご存知でしたか?

 

エコーロケーションとも呼ばれるこれは、自分の出した音が物にぶつかって跳ね返ってきた反響音から周囲の状況を知ることを言います。

反響してくる方向や反響音が自分に届くまでの時間によって、音を跳ね返した物の位置や自分との距離を把握することができるのです。

 

人の目は物に当たって跳ね返ってきた光をキャッチして周囲の状況を見ています。

そうなんです!

 

反響定位というのはまさに視覚のような役割をしているのです。

音だから聴覚的な奴だろ、と見くびってもらっちゃあ困ります。

 

 

2.コウモリは超音波を使ってるから暗闇もへっちゃらさ!

 

いくつかの種類の動物は超音波による反響定位を利用して暮らしています。

イルカとかクジラなんかがそうです。

夜行性の鳥の中には反響定位を利用している種もいるのだとか。

 

コウモリもそんな生き物の一人です。

 

だから彼らは洞窟などの、ほぼ真っ暗闇じゃねーかって所でもビュンビュン飛び回れるわけなんですね~。

 

そんなコウモリですが、反響定位を利用するのは昆虫を主食にしている小型コウモリ類の方です。

オオコウモリなどの大型種は聴覚よりも視覚を利用して生活しています。目が大事ってことですね!

 

なんで小型も視覚に頼らないのさ?

 

そう思われるかもしれませんが、小型種の目は非常に小さいんです。

おっきな目を持つ大型種は周囲を見て状況を知ればいいですけど、小さい目だとそんなに精度が良くないわけです。

しかも暗い所に棲んでますし。

 

というわけで、小型種たちが超音波による反響定位を利用しているわけです。

そのように進化してきた彼らの耳は薄くて大きいです。

小さな音でもキャッチできそうですね。

 

種によって異なりますが、彼らが口から出す超音波はだいたい30kHz~100kHzの高周波

になります。

人間の耳では全く聞こえないので、コウモリ主観でどんな風に周囲の状況を感じているのかは分かりませんが、彼らはこの超音波を使って餌を探しています。

たとえ暗くて標的が見えなくても、音を利用すれば居場所が探れるということですね。

 

そして獲物を捉える直前は、音を発する頻度が高くなります。

 

 

3.コウモリは最初から反響定位を持ってたわけではなかった?

 

コウモリ直系の祖先や、飛行能力を獲得する進化の途上過程を示す化石は、残念ながらまだ発見されていません。

しかし原始的なコウモリの化石から、大昔の彼らの耳の構造を詳細に研究したところ、次のことが判明しました。

 

それは、彼らが最初から反響定位を持っていたわけではないという事です。

 

化石になった彼らが語るところから、コウモリは飛行能力をまずは身に付け、その後に反響定位を行う能力を身に付けたという事が分かっています。

 

 

4.四季のあとがき

 

コウモリが超音波を出して、その反響音で周囲の状況を把握している、ということは知っていました。

けれどそのような、音で周囲の状況を知ることを「反響定位」と読んだり、「エコーロケーション」と呼んだりしているのは今回調べて初めて知りました。

 

いやぁもう率直に言って、コウモリすげーな! ですよ。

本文でも書きましたけど、超音波で自分の周りを知るってどんな感じなんでしょう?

想像できないわけではないですけど、わたしの聴覚が反響定位できるとは到底思えません。

そこまで優秀な耳はしていなさそうです。残念ながら。

 

ああ、でも、視覚障がい者の方の中には反響定位を利用している方もいるみたいです。

アメリカだと、視覚障がい者の方向けの反響定位トレーニングを行っている団体もあるそうです。

 

音で周りを知る。

難しそうですけど、習得できたら視覚に頼らなくても何とか生きていけそうですね。

 

それでは、また~。

 

 

ソース

反響定位 - Wikipedia

コウモリ - Wikipedia

 

速読する時に押さえておきたい5つのコツ

もうどーいは。

 

前回は速読の前準備とかメリットとかについて話しました。

今回はいよいよ、速読する時の具体的なコツを5つ紹介します。

要点は目次にまとまってるので、サクッと知りたい場合は目次をじっくり読んでくださいね!

 

前の記事はこちら

ori-06-4-ki.hatenablog.com

 

今回の目次〜。

 

 

1.何を知りたいの? 読む目的を明確にする

 

前準備によって今手に取っている本の基本的な情報はすでに入手済みなあなた。

意気揚々と速読し始めようとしているところかと思いますが、ちょっと待ってください!

 

「なんだよ、もぉ~」とかそう言わずに。

あなたはその本からどんなことを学ぼうとしていますか?

 

そんなこと考えていなかったという方、呼びとめて正解でした。

読む前にまず、この本から何を学ぼうとしているのか、読む目的を明確にしてください。

そう。速読の心得その1は、「読む目的を明確にする」です。

 

目次とかから大体何が書いてあるか読みとれていると思いますし、よく分からなくても内容を推測することはできますよね。

なので読む目的を決めるのはそんなに難しくないはずです。

 

なぜ読む目的を明確にするべきなのか。

それは、目的がはっきりしていると情報の取捨選択をする際に非常に役立つからです。

速読では本の内容全部を把握する必要はありません。

自分にとって大切な情報を漏らさず入手できればそれでいいのです。

 

このようにしっかりと目的を持って読むと自然と読み進める速度は速くなります。

 

 

2.全文読まなくてもいい! 拾い読みのススメ

 

目的を決めて読む場合、自分の目的に合致していない部分は別に読まなくてもいいところ、ということになります。

そういう部分はバッサリと読み飛ばしていきましょう。

速読の心得その2は、「拾い読み」です。

 

本というものは最初から最後まで一言一句読むべきものだ。

 

そう考えている人は多いと思います。

わたしも思っていた人のひとりでした。

 

しかし、何か知識を得ようとする読書の場合は別に全部読まなくたっていいのです。

1冊の本の中で自分にとって役立つ情報というのはそう多くは無いと言われています。

メンタリストのDaiGoさんも以前仰っていましたが、1冊の本の中で自分に有用な情報というのは約7%くらいだそうです。

 

なので、全部読むのはやめましょう。

ある一文だけ。ある単語だけ。

そんな感じで、読むというよりかは言葉を拾っていく感じでやっていきましょう。

 

 

3.心の声で読むな! 目で見て黙読すること

 

速読の心得その3は、「黙読」です。

 

あなたは黙読できていますか?

わたしなんかは意識しないとついつい心の中で音読しがちです。

音読していると、「本読んでるなぁ~」感は出るんですけど、時間が掛かってしまうんですよね。

 

そのため、速読においては文字を音読しない、目で見て意味を掴む黙読をする事が必須になります!

心の声で文を読んではダメなのです!

 

黙読に関しては慣れないと難しいと思います。

わたしは未だに難しいと感じているので、疲れていない時とか集中力がある時じゃないと上手くできません。

わたしのように黙読苦手って方は、指で文をなぞりながら黙読する訓練をお勧めします。

 

指でなぞると言ってもですね、かなり早く指を動かして下さい。

で、その動きを目で追ってください。

いまいち意味が掴めなかったという瞬間があっても、指の動きを止めたり前の文章に戻ったりしないでください。

これを続けていくと黙読する技術は上がっていきますよ!

 

 

4.時間は限りあるもの! 短い時間でスパッと読む

 

速読の心得その4は、「短い時間で読む」です。

 

速読は早く読むから速読なのです。

つまり、1冊あたりに掛ける時間を短くしてください。

たとえば、1時間とか、30分とか。極端に10分とか!

 

「10分じゃあ読めるわけないよ~」

 

そんな方も多いかと思いますし、わたしもまだ10分で読破は無理です。

しかし、そんな速読初心者にも短い時間制限を設けることを推奨します。

 

それはなぜか?

あえて時間制限を設けることで自分が速読する時に時間を意識するようにしむけ、それによって集中力を高めるためです。

 

集中力を高めることはとても重要です。

自分の目的に合致した部分を見つける場合にも集中しないといけません。

効率的に拾い読みする場合にも集中しないといけません。

また、黙読する際は集中力が高い方が上手にできます。

 

そう!

速読をする時には集中力が非常に大切なんです。

これ如何で効率が変わってきてしまうので、要注意です!

 

 

5.立ち止まったってしょうがない! とにかく通読

 

最後である速読の心得その5は、「とにかく通読する」です。

 

これはどういう事かというと、速読を初めてたら途中で止まらずに最後のページまで突っ走ってきてくれ!ってことです。

 

おそらく、速読チャレンジしていると、「ん? 今のところはどういうことだったんだろう?」とか、「スピード命で拾い読んでたけど、あんまり内容が掴めなかったなぁ」という状態になることがあると思います。

 

そんな状態になっても走ることを止めないでください。

1冊読み終えるまではその疑問点は忘れてください。

速読で読み終えた後にまだ疑問が残っていたら、その時にはまた1から速読して読み直せばいいんです。

とにかく通読することによって本の中身を掴んで下さい。

そうすれば読み直す時もより効率的に読むことができます。

 

本というものは、じっくり読めばいいというわけではありません。

むしろ、記憶に定着させるという観点から考えれば、短時間で何回も読み直す方が効果的です。

いわゆる反復学習ってやつですね。

 

同じ目的で読み直してもいいですし、最初とは違った目的を設定して読み直してもかまいません。

本は何回読み返してもいいんです。

1回で内容が掴めなかったら、もう1回読んでも別に悪くないのです。

速読なので1冊読むのにそんな時間は掛からないでしょうし、復習のつもりで読み直すというのも全然ありだと思います。

 

 

6.四季のあとがき

 

以上が、速読する時の具体的な5つのコツです。

 

1個ずつやるのではなく、5つ全部を意識して取り組むと速読の効率が上がっていいと思います。

特に黙読拾い読みは、何の苦労も無くできるようにしておくと他でも応用が利きます。

例えばメールの長い本文を短い時間で読む時とか。

新聞やネットニュースの記事をさらっと読む時とか。

 

ただ、やっぱ速読って技術なんですよね。

だからコツを知っているだけじゃあ意味が無くって、自分で何度も練習して徐々に腕を上げていく必要があります。

なので、速読苦手だというそこのあなたも、臆せずにどんどんチャレンジしていって欲しいと思います。

 

読書は学びの基本ですから、わたしと一緒に読書スキルを磨いていきましょー!

 

それでは、また~。

 

 

参考文献